『犯人がわかりますん。』黒沼昇(KADOKAWA/アスキー・メディアワークス)読了

ミステリィとオカルトを融合させたラノベ。

ミステリィとして、あるいはオカルトとして、あるいはラノベとしてそれぞれ見た場合は残念という評価がくだされるかもしれないが、それら3つを融合させるのはそれだけでも難しいことなのに、曲がりなりにも破綻せずやってのけたとことには大変感心した。

そういう妙を楽しみたいなら読んで損はなし。

『know』野崎まど(早川書房)読了

AR、IoT(のようなもの)などをギミックとするSFでありながら、最終的に哲学側にシフトしてくる小説、なんだが、あまり小難しいことを言わないため、寄ってくる側がライトファンタジーと言ってもいいような仕上がりになっている。

これはけしてけなしているわけではない。

SF的ガジェットに関して、正直物足りなくてワクワクはできなかったが、本筋に支障をきたさないレヴェルは十分に保たれている部分などとよいバランスになっている。

エピローグのどこかあっけらかんとした明るさもその一部。

傑作とまでは言えないが、なかなかおもしろい作品だった。

『フェアリーテイル・クロニクル ~空気読まない異世界ライフ~ 1~4』埴輪星人(KADOKAWA/メディアファクトリー)読了

巷で流行りらしい異世界飛ばされ系&モノづくり中心ファンタジィ。

評判がよさそうだったので読んでみたが……地の文の説明や場面転換など一般的な小説技法に難があり(少なくとも俺にはそう思えた)読みにくかったり、(これまた最近流行りらしい)主人公たちの俺TUEEEEに辟易したり……。

ただ、読んでて心地よく思う気持ちも判らないでもないし、なんとなく最近のトレンドがつかめたような気はした。

また、そもそも設定としての異常に食にこだわる飛ばされ系冒険者というのはいいと思う。ここから化けるかと言われれば難しそうだけど。

機会があれば続きも読む。

『錯覚の科学』クリストファー・チャブリス、ダニエル・シモンズ(文藝春秋)読了

  • 人間の注意力はまったくあてにならない。注意を払っているもの以外は信じられないレヴェルで見落とすことがある。
  • 人間の記憶はまったくあてにならない。ついさっきのことを正確に思い出せなかったり、簡単に記憶を捏造したりする。
  • 人間の自信はまったくあてにならない。自信を持った証言や判断はしばしば誤っている。なお、実力の低いチェスプレイヤーほど自分の実力を過大評価する!
  • 人間の知識はまったくあてにならない。正しく判っていると思っていることを実は驚くほど判っていない。
  • 人間の原因推理は驚くほどあてにならない。偶然・相関関係・因果関係についての混乱が甚だしく、俗説・デマゴーグ・陰謀論にすぐ騙される。

人間の錯覚・思い込みをこれでもかというぐらいに指摘しており、まことに胸のすくような内容だった。

人間である以上、本書で述べられているような錯覚から完全に自由になることは難しいが、それがある、と判っていれば、落とし穴を避けられるケースもあるだろう。こういうことこそ学校でも教えるべきだし、マスコミもこういう視点を持って報道をすべき。

が、残念ながらこういう視点から話をすると、一般的には煙たがられるだけという悲しい事実もある。利己的に行動するならば、人間の錯覚する「習性」を利用して、他人より優位に立つことは可能だが(自信がなくても堂々と自信を持った「フリ」で面接を受けるとか。みんなしてるでしょ?)、バカは騙してもいいだろうという考え方は、個人的には好きではない。

まあ少なくとも「錯覚」から逃れるために読んでおくべき本だ。

『犯罪ホロスコープ1 六人の女王の問題』『犯罪ホロスコープII 三人の女神の問題』法月綸太郎(光文社)読了

ゾディアック(黄道十二宮)をテーマにした12編の短篇集。

どの短編も、それぞれテーマとなっている星座の由来などを絡めたプロットとなっている。総じて水準は高く(当然ながらその中で出来不出来はあるが)、なによりすべてパズラーの枠内で仕上げた手腕には拍手を送りたい。

『ノックス・マシン』法月綸太郎(角川書店)読了

久しぶりに読む法月さんの本。

SFともミステリィとも評論ともつかぬなんとも奇妙な手触り。が、ミステリィ(特に海外)の素養がある人間にとっては、非常に楽しめる作品であると思う。

表題となっている「ノックス・マシン」は、まあオチは途中で判るものの、ユニークな設定と衒学的な文章でけむにまこうとするところなんかはニヤニヤしながら読んでしまったし、「引き立て役倶楽部の陰謀」の登場キャラクター(正直知らないキャラも多いが)の造形も楽しませてもらえた。

「バベルの牢獄」の現代小説っぽさにはいまひとつ馴染めなかったが、「論理蒸発――ノックス・マシン2」のまたもやトンデモな理論には再びニヤつかせてもらった。それにもうだいぶ忘れてしまった『シャム双子の謎』『九尾の猫』を読み返したいとも思わされた。

正直、おもしろくない人にはまったくおもしろさが判らないだろうというのは想像がつく。が、俺は満足させてもらえた。

『江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統』原田実(講談社)読了

もう何年前だったか。俺が最初に聞いた江戸しぐさは「傘かしげ」だった。まったく疑うこともなく、へえ、江戸時代にはそういう心遣いがあったのかと感心した記憶がある。

それからしばらくして、江戸しぐさというものが胡乱極まりないことを知り、おおいに恥じ入った。

が、こういったことはおそらく他にもあるんだろう。自分にとってそこまで重要ではない、が、ちょっと興味を惹かれ、また、なるほどと感じるような、そして、自分にとって心地よい(都合がよい)事実をいとも簡単に受け入れてしまうのは、俺に限ったことではないだろうと思う。

ここ数年、江戸しぐさが教育現場でも取り上げられるようになったと聞き、自らの失態もあっておおいに危惧していたところで、江戸しぐさを真っ向否定する本書が上梓された。

これは読まない手はないと、このたび読了したわけだが、想像以上に実りが大きかった。

まず、一般に流布しているもの以外の江戸しぐさにはとんでもないものも相当数あるということを知った。本書のセクション名で挙げてみる。

  • 身分社会で平等主義?
  • 江戸に嫌煙権はありえたか?
  • トマトの食用は近代以降
  • 真夏の江戸で氷は手に入ったか?

推して知るべし。

次に江戸っ子狩りのトンデモ具合。江戸しぐさが文献に残っていないことについての説明だが、よくもまあこれで通じると思ったものだ。

そしてここからが『江戸しぐさの***正体***』というタイトルの真骨頂だったんだが、本書が紐解いた歴史によれば、もともと江戸しぐさとは、芝三光という人物が、本人の倫理観や欧米のマナーをもとに、理想の「江戸」に仮託して語った「思想」だったと。だから芝本人としては、一つ一つのしぐさがマニュアル化されることを嫌ってたし、それが書籍化(文献化)されることも嫌がってた。

ところがその弟子の越川、桐山という人物らが(特に芝の死後)それらをマニュアル化し、たまたま時代の要請に応えるものであったため、ここまで大きくなったんだと。

これは今までまったく知らなかった江戸しぐさの歴史で、かつ大きくうなずけるものだった。

また、江戸しぐさのUFOや偽史(『東日流外三郡誌』等)や、教育現場に蔓延する(した・しかけた)EM菌や水からの伝言との類似性という指摘もさもありなんという感じ。

そして、結論としてあった江戸しぐさの教育現場から追放すべきという話は、本書を読んだまともな人間なら同意しないことはないだろう(と思いたい)。

トンデモがトンデモとして正しく扱われますように……。

『頭を冷やすための靖国論』三土修平(筑摩書房)読了

靖国問題の複雑さをいろんな視点から指摘しており、「頭を冷やすための」というタイトルに偽りなしの内容で、もっとも冷静な分析の書籍となっている。

特に戦後、靖国がどうして今のような形になったのかという経緯の説明は詳細かつ判りやすい。

また、日本人にとっての「公私」を天皇や神社と結びつけた持論はユニーク(個人的には腑に落ちるというより、なるほどね、という感じだったが)。

そして、最終章、現代の臼淵が必要だという筆者の提言は理解はできるが、正直どこから手を付けられるんだろうという途方に暮れるような提言でもある。筆者が予感するような、世紀のスパンで見て、「へえーっ、そんな時代があったんですか」と言われるような靖国になっていくんだろうか……。

3冊靖国関係の書籍を読んで感じたこと。俺はかねがね靖国は戦後すぐに廃止しておけばよかったと考えていたんだけど(戦争責任の明確化も合わせて)、宗教性を排して公共性を残す形で決着させておいたほうがよかったかもしれない。日本にとっても諸外国にとっても。

過ぎたことはさておき、今後どうすべきかということについては、正直よい考えを持ち合わせていない。いわゆる「遺族」がいない世代になればまた新しい展開もあるのかなという感触はあるが、それだってどう転ぶか。考えていくことは必要だ。

『戦争を知らない人のための靖国問題』上坂冬子(文藝春秋)読了

こちらは(いわゆる)靖国肯定派のアツい思いがつまった本とでも言おうか。

正直俺から見ると、事実関係の理解(解釈というべきか)が無理矢理・トンデモに感じるところが多かったんだが、ただその中でも一本筋が通っていて同意できる、といったところも散見された。なんというかまさに戦中の日本人、といったところか。

靖国問題の大きなファクターとして、戦中、「お国のために」「靖国で会おう」と言って死んでいった人々の遺族感情がある。もちろんそれはそういった「装置」に騙され、洗脳されていたわけだが、靖国に祀られて神になったと自らを慰めていた人たちの感情を抜きにして靖国を語ることはできない。そして、本書はそういった人たちの感情のいくらかを代弁しているところが奥深くに感じられ(実は直接的にはそれほどではない)、論理はトンデモでも、そういう意味でも読んだ意義があったかなと感じられた。

『靖国問題』高橋哲哉(筑摩書房)読了

明治以降、靖国神社の果たしてきた役割、そして、戦後靖国神社がたどった道筋を整理している部分については大変判りやすい。

なかでも雑誌「主婦の友」に掲載された「母一人子一人の愛児を御国に捧げた誉れの母の感涙座談会」の引用は、靖国神社がいかなる「装置」であって、そのいびつさがどのようなものであったかをあぶり出す非常に興味深いものだった。

そのように事実関係の整理部分については、頷きながら読めていたんだが、終盤になって「靖国神社をどうすべきか」という問題についての筆者の考えに至ると、とたんに首をかしげざるをえないようなラディカルさに直面することになった。

「どのような性格のものであれ、公立の追悼施設自体が顕彰施設となりうる危険性をはらんでいる」。これは判る。

が「であるから、そういう施設を建設しても、問題のない形をとるためには日本が戦争責任を認識し、非戦・平和主義を完全非武装によって担保しなければならない」というのは、論理的には(いちおう)破綻はしていないものの、あまりにも現実と乖離していて、ビックリしてしまう。

現在の社会状況でとても可能とは思えないことが唯一の答えであるならば、靖国問題(日本の戦争責任問題という広い意味でとってもいい)を解決を考える気が本当にあるんだろうかと疑いたくなってしまうような一足飛びな結論だった。

ただ、最初に書いたように事実関係の整理についてはとてもよくまとまっていると思うので、そういう意味ではおすすめできる。